メイン

2008年09月27日

懐かしいもの

この度、わたくし事の慶びがあり、東京サァへ行ってきた。
久し振りの、二泊三日の旅。
飛行機にするか、新幹線かで思案したが
お上りさんなので、富士山を見るため、新幹線にした。

しかし、期待した富士山は、往きも復りも見えなかった。

が、
大阪駅での乗換えで、懐かしい物にあえた。

私が、まだ元気がよく、頑張れていた20年ほども前
月に3~4回の仕入れの為、大阪へ行っていた頃
毎回、お世話になっていた弁当の話。

     08-09-24-001.jpg   08-09-24-002.jpg
この「八角弁当」、いろいろと食べた中で、一番美味しかった。
その当時、800円くらいだったように覚えている。

そんな、こんなを考えながら探したが
ホームなど、駅の中のどこにでも有った「水了軒」の売場
いくら探しても見当たらない。

仕方なく、駅員さんに尋ねてみると・・・

"あそこに有りますョ"・・・指差す先は改札の外
"どうしても、「水了軒」ですかァ?"
"はい、どうしても「八角弁当」なんです・・・"
"じゃあ、特別です、ここから出てください"

こんな、やり取りで手に入れた弁当

その内容は殆ど変わりなく
"ホッ"として、発車してからの味。

"やっぱり、うまいのぉー"
"ぜんぜん変わってないねぇー"
"・・・・・・"
あとは無言。

値段は、1,000円超になっていたが
懐かしい味、満足満足。


2007年04月28日

爽籟軒

尾道に、また見所が増えた。
「豪商 橋本家」の庭園「爽籟軒(そうらいけん)」

今では旧市街の中心地であるが、築庭された当時は
海に面した船着場まである広大な敷地の別荘であった。

橋本家が尾道から転居され、永年荒廃していた庭園を
広島ホームテレビの橋本社長より尾道市へ寄贈を頂き
修復がなされた。

爽籟軒-002.jpg 爽籟軒-001.jpg
今では暗渠になってしまったが、
塀の手前は、きれいな水の流れる「坊地川」であった。

爽籟軒-003.jpg爽籟軒-004.jpg爽籟軒-012.jpg
「腰掛待合」から南を見る

爽籟軒-006.jpg爽籟軒-007.jpg爽籟軒-008.jpg爽籟軒-009.jpg
茶室「妙喜庵(みょうきあん)」 尾道市重要文化財

爽籟軒-010.jpg爽籟軒-011.jpg
塀の外にある「坊地川」から水を引き
尾道水道の潮の満ち引きに合わせて
この池の水が上下した。

爽籟軒-005.jpg爽籟軒-013.jpg爽籟軒-014.jpg
爽籟軒-015.jpg爽籟軒-016.jpg爽籟軒-017.jpg
江戸期の築庭とされ、茶室と共に多くの樹木が配された
近郊では数少ない素晴らしい庭園である。

爽籟軒-018.jpg
船着場から揚ったら
この様に見えただろう。

http://map.livedoor.com/map/scroll?MAP=E133.12.34.9N34.24.32.0&ZM=11             
            ↑
           地図

入園料 無料
開園日 「土」「日」「祝祭」「1月2 ・3日」
時 間 4~11月 午前10時~午後5時
     11~3月 午前10時~午後4時


2006年11月14日

久し振りに

先の「一宮さん(べっちゃー祭)」の夜、珍しいものを目にした。

知り合いの若い衆2~3人が着物姿で現れた。
   「ウール着物」
   「黒朱子足袋(くろしゅすたび)」
   「厚歯高下駄(あつばたかげた)」

       こんな出で立ちを見て、昔を思い出した。
      下駄-01.jpg

終戦間もなくの事、すべての物資は不足し、
靴などは、学校で「くじ引き」をして「交換券」を貰って買いに行く。
必要が無い人は、他の人に譲ってあげた。
そんな状態だったので、通常は「下駄」を履いて通学していた。

冬が大変だ。
60年ほど前は、尾道でも「雪」がよく降って
雪の日は、雨降りの時専用の「高下駄」を履いて行く。
ところが、下駄の「歯」に雪が挟まって、
雪だるま式にどんどん重なり、10歩も歩けば歩けなくなってしまう。
何度となく、その雪を石で叩いて落とさねばならぬ
100メートルほどしか離れていない学校へも難儀して通った。
加えて、履いている「黒朱子足袋」は綿である。
     朱子足袋-02.jpg 甲馳-03.jpg
    右の写真の金属部分は「甲馳(こはぜ)」
    2段階に大きさの調節ができる

学校へ着くまでには、ベチャベチャで一日中足が凍えた。
「しもやけ」や「あかぎれ」は当たり前だった時代。
今では、学校の教室までも暖房がきいているそうだが・・・。

薄歯の高下駄は、時々料理屋の板前さんが履いているが
厚歯高下駄は久し振りに見た。


2006年10月30日

グレンその後

いよいよ最後のグレンの処理。
鶴が餌をついばんでいるような格好。
クレーン-601.jpg

やはり、一基だけ残る。
なにか、スッキリしたような感じだ。
クレーン-602.jpg

また、工場の中から音が聞こえて
昔の活気が少し戻ってくる。


2006年10月25日

懐かしい物

昔の尾道は陸、海の大ターミナルだった。

人も物も、この近郊では一番多く出入りがあったのだ。
そこで活躍したモノは「レッチ(手押し)」だ。
     レッチ(手押し台車)-01.jpg
船から揚がった荷物も、陸から船への荷物も全部これで運んだ。
勿論、「大八」や「リャカー」「自転車」もあったが、これが一番多く
この「レッチ」へ荷物を山ほど積んで、市内の商店まで配達したり
雁木や桟橋から揚がった荷物を白壁の倉庫や駅まで運ぶ。

今の「手押し台車」は「押す」、「レッチ」は「曳く」。
     手押し台車-01.jpg
港には筋肉隆々の「仲仕(なかし・なかせ)」が沢山居て
"ひょい"と帆布の前掛けを肩にして、重い荷物も軽々と担いでは
「レッチ」へ乗せて、勢い良く市内を走り回っていた光景を思い出す。

今は大量消費時代で、沢山の荷物をトラックで運ぶが
これは、むかしの懐かしき良き時代の光景だ。

  近年、東方の国から押し寄せた    
    大量消費が美徳の生活は、もう終わりにしたい。



2006年10月24日

仲間に看取られて

きょうの尾道、雲は有るが秋晴れのいい天気になった。

       尾道クレーン-501.jpg

     このグレン、
        私には、逝く仲間を看取っているように見えた。


2006年10月23日

グレンその後

尾道の顔が、新しい時代を創るため、日々変わってゆく。

6基あったグレンは1基になると言う噂だが・・・。
   2006年10月23日正午現在。
      尾道クレーン-401.jpg

  尾道クレーン-402.jpg  尾道クレーン-403.jpg

1913年設立の「水野船梁造船所」が
1943年に合併で「日立造船」と成って以来
尾道の代表的な「ドック」で在り続けた工場だった。 

  尾道にも新しい風が吹きつつある。


2006年10月10日

グレン(クレーン)その後

連休の間、尾道に来られた観光客の何人の方の気に止まったか?
徐々にではあるが、進んでいる。
   グレン-301.jpg
この様に、ゆっくりなテンポで解体が進んでくれるので
寂しいながらも、まだ、気が楽だ。
   グレン-302.jpg
ある日、突然では、がっかりの度合いが大きいだろう。

     眼に焼き付けようと思っても、
      暫くしたら、
        どこへどんな形でって言うのを
          忘れてしまうんだろうなぁ。


2006年10月04日

遂に、寂しいこと始まる

     尾道に、子供の頃から、有って当たり前・・・
      の、物が無くなってゆく・・・。
     なんと、さびしい事か・・・。
     日立造船グレン-01.jpg
     でも、新しい時代の始まり。
     "尾道も脱皮の最中なのだ"
     と、自分に言い聞かせてみる。
   グレン-02.jpg
   グレン-03.jpg
   グレン-04.jpg
   グレン-05.jpg
   グレン-06.jpg
             やはり寂しい。

      夕焼けグレン-101.jpg夕焼けグレン-102.jpg
      夕焼けグレン-103.jpg夕焼けグレン-104.jpg
       もう、こんな風景も見れないのだ。

         グレンよ、ありがとう。


2006年10月02日

裁判所の門

尾道の昔は、道路が大変狭く
自動車の普及について行けない時代が永かった。
バイパスが出来るまでは、運転手さんの難所のひとつだったが
今はバイパスや国道、海岸通が出来て楽に走れるようになった。

海岸通も、今のように一直線で通り抜けることは出来なかった。
市役所から東に抜ける道は、今では真っ直ぐに浄土寺下まで通れて
快適に走れるが、昔は「竹村家」から東は「裁判所」の塀があり
直線道路ではなかったのだ。
      裁判所門柱-01.jpg
その「裁判所」の名残が、この「門柱」。

    裁判所門柱-02.jpg
       向こう側が入り口

殆どが道路と「松本病院」になってしまったが、敷地は大変広かった。

私が子供の頃、海に「裁判所」、山に「刑務所」があって
青い着物で、わらぞうり、天蓋(深編笠)を冠った人々が、
20人もロープで数珠つなぎに結ばれて、ぞろりぞろりと
山と海を歩いて行き来していたことを思い出す。
人権もおろそかだった時代。

       しかし、当時の母親たちは
  "わりーことーしたら、あぎゃーになるんでー"
     反面教師としてたしなめたものだ。

  今の親は、どのように躾けているんだろうか?


2006年09月19日

尾道のジェットコースター

尾道の町は坂道が多い。
大昔はだったので、大方の神社仏閣は山の手にある。
しかも、大きな神社や寺がほとんどだ。
ここにお参りするには、昔は海から直接石段を登ったようだ。
その為、古くからある神社や寺へは、今でも長い石段を登るのだ。

5~60年ほど前には、その石段が我々子供の格好の遊び場だった。
「ゴザ」「砂」これだけで、充分一日中遊べた。
幸い、我が家の近くに「たたみ屋」があり、ゴザの入手に事欠かなかった。
そのゴザを担いで、あちこちのお寺めぐり?をした。

「砂」を撒いては滑る、撒いては滑る、・・・・・延々と続くのだ。
どこの石段も、順番待ちができるほどだった。
     尾道の石段-01   尾道の石段-02
もう、「石段」で遊ぶ子供や「たたみ屋」も見ることはないし
ツルツルであった「石段」も、今では苔が生え始めていたりするのである。

      今で思えば、平気で危ない遊びをしていたものだ。


2006年09月09日

CLASSY(クラッシィ)ちゃん誕生

一瞬で60年前へタイムスリップしてしまった。
本当に久し振りの進水式。
凄い迫力だった。
進水式は日立造船所尾道西工場で見て以来だ。
やはり、尾道はこれでなくては・・・。

昔の船体はあまり大きくなかったが、同じ迫力だった。
尾道水道での進水は向かいに尾道の町があり
水道が狭いので大変な作業だった。
対岸の岸壁や民家に激突する恐れがあるからだ。
進水船には、太いワイヤーロープや鎖が取り付けられて
それを引きずりながら進水するが、そのロープなども
物凄い音とともに切れてしまうのだ。
切れたロープや鎖が海面を叩き物凄い水しぶきが上がる。
一方、何杯ものランチがワイヤーロープを引いたり
船体を押したりして、進水船の向きを水道と平行にする。
そのタイミングは一瞬を争うのだ。
尾道の岸壁、数十メートルのところで激突が回避される。
全く神業に近い作業である。
こんな光景を思い出しながら、進水を見ていたら一瞬で終わってしまった。
    進水式-01  進水式-02  進水式-03

    進水式-04  進水式-05  進水式-06
           無事、進水式は終了。

CLASSY VICTORIA(クラッシィ ヴィクトリア)ちゃん おめでとう!!
            進水式-07
           広島県尾道市山波町
           尾道造船所
           平成18年9月9日(土)
           午後12時30分
           総噸数 40,800
            進水式-08
        明日からは艤装作業が始まる。


2006年08月24日

ゲルマニゥム

昨今、巷ではゲルマニゥムが大流行だが
尾道では、50年以上前からゲルマニゥムはお馴染みだった。
  千光寺山に、こんなものがあったからだ。JODP尾道放送局



J O D P
NHK尾道放送局(ラジオ)
860Kc(キロサイクル)
500W(ワット)

  この近辺では、何処よりも早く時代の先端を行っていた。

    お陰で、我々悪がきも最先端を楽しんだ。
    手作りラジオを作って楽しんだ。
    鉱石ラジオ(ゲルマニゥムラジオ)というものだ。
  黒いエボナイトの筒の両方に金属のネジの蓋があり
  中には両方からスプリングで押されて中央に
  小さなゲルマニゥム鉱石のカケラが入っている。
    今では考えられないくらい大きな部品を木の板の上に
  取り付けてラジオを作り、電池不要でよく聞こえた。
    普段は、NHKラジオしか聞こえなかったが
   時たま、どこかの放送が聞こえて興奮したものだ。
   他の人より大きなスパイダーコイルエナメル線
   一生懸命巻いたり、長い竹竿にアンテナを付けてみたり
   いろいろと工夫して聞こえ方を競ったものだった。

     今のお坊ちゃま、お嬢ちゃまは、自分で何かを作り出す
     という楽しみが無くなって、かわいそうだと思う。

  私が子供の頃は、遊び道具の殆どは自分たちの手作りだった。

2006年08月21日

オバQ

   昔むかし、尾道の千光寺山に動物がいっぱいいました。
  小鳥や鹿、山羊、兎、などいろいろなお友達といっしょに
  おサルさんもサル山にたくさんいました。
      senkoji-tamon.jpg
 そのサル山のとなりにオバQも仲間と仲良く暮らしていました。
  千光寺山には、ロープウェーが上り下りして
 毎日毎日たくさんの人が遊びに来ていました。
   の桜が咲く頃は千光寺山は人でいっぱいになりました。
   は子供がセミやトンボ、ちょうを捕ったり乗り物であそびました。
   の菊人形展や桜が紅葉の時も人でいっぱいでした。
   は遠くが良く見えるので、観光客も登ってくれました。
 でも、大きな遊園地や遊ぶところがいろいろできたので
お客さんがしだいに少なくなってきました。
 観光のお客さんは、バスや自家用車で頂上の駐車場には来ますが
あまり下まで降りてくれなくなりました。

   動物たちやおサルさんもがんばっていましたが
 とうとう動物たちもサル山も頂上へ引っ越すことになりました。

   オバQ多門亭と言う、お店でお世話になっていました。
  その店は千光寺山へ来たお客さんが休憩するところでした。
                tamon-01.jpg
 おみやげ、おかし、飲み物、お酒、お弁当、うどん、氷・・・
 休憩や宴会、いろんな物を売っていました。
   オバQと仲間たちは、子供を乗せて楽しんでもらっていました。
 サル山がなくなっても、一生けんめいがんばっていましたが
 だんだんお客さんが少なくなってしまいました。

   そして、とうとうオバQだけが町へ降りることになりました。
 町は、いっぱい子供がいて、毎日たくさんの子供が乗ってくれました。
 ご主人がやっている電気屋さんも大忙しの毎日でした。
  だから、仲間を呼び寄せることができませんでした。
      obaQ-01.jpg
  毎日毎日、ひとりで頑張っているうち三本の毛も抜けてしまいました。
 あっという間に時間が過ぎてしまいました。
  もう、かれこれ30年も山の上のおサルのかごやさんとテレパシーで
  一日中むかしの話をしています。
                  kagoya-01.jpg
          お互いにいつまでも元気でいようねと・・・。


               ガイド犬どびんの取材順調・・・間もなく公開


2006年07月26日

図書館の入り口

     滅多に歩くことは無いが、久しぶりに町を歩いた。
          懐かしいものに出会った。

尾道は文化的にたいへん進んだ町で
100年も前、明治39年(1906)に図書館が出来たのだ。

   協賛人 446名協賛金 伍千四百八拾四圓四拾銭
      勧商場内を借り受けて、家賃 月 壱圓伍拾銭
        多くの図書が寄贈され、協賛人だけの会員制であった。

その後、大正4年(1915)久保町265番地の2 に市立図書館として開館。
3月1日 一般閲覧入館者 大人 10名 子供 56名 の記録あり。
tosyo-01.jpg
この時の門柱(石柱)がこれだ。
懐かしくその頃が思い出される。
何をしに行ったのかは覚えていないが、私も2~3度くぐった事がある。
 2~3軒東となりに太陽館と言う映画館が有って、
この映画館が火災に遭い、図書館も危なかったが、幸い被害は無かった。
(双方とも現在見ることはできない)

この場所も増築スペースが無く、手狭になってしまったため
昭和36年(1961)久保町360番地(久保八幡神社地内)に新築移転。
  (この地は、近所の子供たちの遊び場だったのだが・・・)
この時期に市内各地を巡る移動図書館車の寄付を受け活動を開始。

昭和60年(1985)市民病院(旧 厚生病院)の跡地購入。
平成02年(1990)11月8日現在の市立図書館開館。

     大きな窓で室内は明るく、スペースも広くて、
    クーラーもきき、たいへん快適な図書館となった。
           tosyo-03.jpg

小生も暫くの間(動けなくなるまで)便利に利用させて貰う積もりだ。