尾道と言う町、県内では広島に次いで繁栄したそうだ。
明治11年 1878 国立第六十六銀行(現 広島銀行)
明治24年 1891 山陽鉄道・・・国鉄(福山-尾道)
明治25年 1892 〃 (尾道-広島)
明治28年 1895 住友銀行進出
明治31年 1898 4月 県下二番目の市制
ここまで古い出来事は知るよしもない。
が、 私が子供の頃、尾道の町には人や物が多かったことは確かだ。
先日も書き込んだが、
海からの客が多かったのは勿論
陸からも
人、
物が多く出入りした。

大きな倉庫が、
「駅前桟橋」の西の岸壁にずらりと並び
海を経て全国から来た物資を一旦保管して内陸部や山陰へ運んだ。
また、
米、
塩などの、重くて場所を取る農産物などを船で運ぶため
この倉庫で一時保管するのだ。
(今後は違う目的で利用される予定)
岸壁には、色々な
物資が山の様に積んであった記憶がある。
このように、尾道は昔から、中国地方、取分け備後地方の一大集積地だった。

その為、
早くから開通していた汽車の利用を考えて、
尾道駅から、海壁の
倉庫まで
「国鉄引込線」をつけたのである。
※現在、引込線の線路跡は
自転車置き場になった
ところが、戦後は復興物資の流通が盛んになり、
この引込線の利用が極端に増えた為、踏切が多くて
南北を国鉄で分断されている尾道は難儀した。
頻繁に、貨車を引込線へ入れる為の
ポイント切り替えを
再々したので、 特に
では、 いま流行の「開かずの踏切」を、50年以上先取りしていた。
※踏切は、新国道(JRと平行)が出来るまで、
防地口と
長江口以外の南北を結ぶ道は全部踏切であったように思う。
それも、西と東の第一踏切では踏切番の人がいて、遮断機を
手回しハンドルで上げ下ろししてくれたが、それ以外の場所には
今の様な警報機は付いて無かったので、渡る人が自分で確認して
渡っていた為、踏切事故が絶えなかった。
※新国道は、戦時中に列車や鉄道を爆撃された時、類焼を避けるため、
鉄道の両側にあった家を取り壊した跡を道路とした。
今と違って、家の廃材は引き取り手が幾らでもあり、
アッと言う間に無くなり、時には壊す手伝もしてくれた。
昔、これ程に繁栄した尾道、
今後は瀬戸内の
観光拠点として発展するのかな???
いや、発展して欲しい。
・・・私が居なくなったあとからでもいい・・・。